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1959年 社会人 2002年 |
福島県いわき市(旧平市)に3人兄弟の末っ子として生まれる。 父の転勤でもの心ついたのは福島市の山の中、周辺に山しかない 環境で育つ。その後幼稚園入学の一前に再度いわき市に引越し、 福島市での幼児時代の記憶も色々あるが、SLに乗っていわきに戻った 時の印象がひときわ濃い印象でした。小学校時代の最も印象に残る 出来事と言えばやはり月面着陸です。その頃からプラモ作りに 嵌りまくり、模型店のコンテストで入賞までする始末。タミヤ模型の 軍事物は殆ど作った様な気がします。兄弟の年齢差があったせいか 遊びは自分で覚えて行った方かもしれません。人生最大の 選択余地なき失敗は家が松本釣具店の隣だったということです。 殆ど釣具、餌、などをお金を出して買った覚えがありせん。 その頃の家周辺は町場と言っても今に比べればド田舎。道路も殆ど 舗装されておらず、都会的な遊び場は皆無、ただ川が子供の足でも 歩いて5分と近く、夏の夕暮れのオイカワ、秋の落ちブナ、寒ブナ、なまず、 うなぎの冷やし針、鯉、その他釣れる魚には事欠かなかった世界でした。 夏休みは友達と連れ合ってチヤリンコで12キロ離れた海まで海水浴。 早朝の虫とり化石堀り、山での戦争ごっこに「すみか」「基地」作り。 時代は高度成長期にあり、今の方が環境に対する意識も高く BOD値も低いはずなのに・・・・殆ど魚も住まず、又川で遊ぶ子供の 姿も見かけられなくなりました。色々な考え方がありますが、少子化と 教育のあり方の影響が何か昔日のおおらかなものを切り捨てて行って しまった様な気がします。小学校時代は普通の明るく元気な成績も 中の中の子供。というところですが・・・・高学年にかけてはどうしても 特定の子供をえこひいきする担任に我慢がならず、今でいう 登校拒否になりかけたこともありました。まあ大人に対しても理不尽なことは ハッキリ物言う可愛くない生徒だったんでしょうね。そのおかげか? 中学 進学時には「要注意」の烙印を押され、中学の最初の半年は教師に 随分勘ぐられたのが逆に可笑しかった。中学の一学期が終わって教師に 「要注意」を付けた小学校の教師に反対に文句言っておいたぞ。 という言葉をもらった時の痛快なこと、教師の人格というのは生徒 学生の人格に多大な影響を与えるものだと今になってつくつ゜く 思います。中学時代は音楽にのめり込みです。主に洋楽中心 いまだに300枚のレコードを所有しています。デジタルに変換して保存したい のですが機器が高価で参ります。大して勉強もしないため入った高校も 中の中、でもここでバイクに嵌りまくります。原付き免許を取るやいなや 当時毎週の様にあったMXの草レースに出る様になり、当然資金 稼ぎのため朝刊、夕刊、その他のバイト生活、学校にあまり行かなく なり、MX練習中の骨折で一ヶ月半の入院もあり、 一年目の進級は春休み全て登校して勘弁してもらった苦い思い出 があります。音楽はちょつと背伸びしてJAZZに嵌り、殆ど毎日JAZZ喫茶へ これは23歳くらいまで続きましたね〜。レースの方は益々エスカレートし 本格的にレーサーを買う始末、学校帰ればバイクをいじるか、喫茶店に いるかのどちらかでした。ほんとにお金は無かったけどほんとに楽しかった ですね。その後短大入学で北海道へレースは一時中断、しかしXL250S初期型、 TL125、で北海道は存分に走り周りました。2月の網走ツーリングは忘れ得ない。 札幌厚生年金でラリーカールトンのコンサートを聴いて、ギターを全く弾かなくなって しまったのもこの頃。本格的にレース再始動、80cc125cc250ccの3台のレーサーを持ち 各地を転戦、草レースも多数出場、クラスは上がるが収入の全てを つぎ込む生活と仲間内の確執、人を蹴落とそうとする競争意識ばかり で楽しむ要素が無いのに嫌気が差して来ました。それがレースの世界の 本質なのでしょうが。60個の入賞トロフィーを獲得したら止めようと心に決め ぴったりでやめました。人と争うことなくローインパクト、自分自身の満足 のみ追求できるものは・・・と考えて居た所、やはり外遊びが好きなのと 近しい人がやっていたのでサーフィンにまたまた嵌りまくりです。 一年中に海漬かり、湘南、などにも良く行ったものです。コンペティブな部分も ありましたが、基本的にライフスタイルに根付いた遊びだなと今でも感じて います。体力的なものが許せば今でも続けていたい様な気がします。ロングホードなら、 今でもやれるでしょうが、釣りと季節がバッティングするのが・・・・・つらい。 サーフィンと同時にアウトドアもかなりやりました。縦走、キャンプ、テレマークスキー、 山スキー、シーカヤック、山菜取り、ヒッチハイク旅行、バイクツーリング、山小屋小屋番、 ペンシヨンの料理指導で再度北海道へ、無論渓流釣り・・・・・・・今思えば夢か幻か。 結局渓流釣りを選んだのは、やはり幼少期からの記憶と原体験、 現実から全く離れた自分だけの空間で内省的に自然を感じることができるからだと思う。 30才で結婚してからは趣味を渓流釣り一本に絞る、最初は地元の渓流会に入っていたが メンバー高齢化のため解散するかどうかということになり自分から身を引いた。 なぜなら餌釣りを続けるうちに、自然相手に遊ばして頂いているのに、 あまりにも自然に対してのローインパクトの精神が欠けていると感じ始め、 自分の中で餌釣りで魚を大漁に殺戮するための理由付けができなくなってきたからです。 決定的だったのは、秋田の源流地帯、殆ど種沢というところで釣りをした時です、 とんでもないトンネルの様なヤブ沢で岩をよじりながらやっとたどり着いた。 同行者のベテランが缶コーヒーを飲んで岩の上に置く。その後餌竿の先端に道糸を50cmほど付け、その先に買って来たフライを付けてチョンチョンと水面を叩くと、どこからともなく尺近いイワナが飛び出す。正直言ってその時は酔い知れた。まさにイワナの桃源郷なのです。その後翌年又同じ沢に入った、唖然とした、前年は同行者が缶を置いたのを気にも止めていなかったが、翌年同じ場所にある。ここは来てはいけないんだ。そう思った。来ても魚は持ち帰ってはいけない。その思いが自分の感情の最前線に押し出されて来たのです。の後も餌釣りを2年ほど続け、クラブを止めた。元来ルアーの釣りはしていたので、フライ自体は釣りのみに趣味を絞ってからすでに興味の対象となっていた。おれ、将来これ絶対やるな という感じはありました。ただまだ自分にとって見ればまだまだ敷居の高そうな釣りで全体像が掴めず。決心して独学で始めるのには餌釣りクラブをやめる半年前までかかりました。それからがド壷にはまりまくりの生活です。なんであと10年早く始めなかったのか、の後悔しきり。岩井渓一郎さんの言葉に救われた「知り合えなかったより、知り合えたんだからずっといいんじゃないの」ってね。 この釣りをやっていると年々河川の荒廃、そして釣りにくくなって来ているのが実感できます。少しでもいい環境で後世に残したいな。素直な実感です。釣果のみでなく釣りを取り巻く周辺を含めて楽しんで、生きたい。そして何時の日かお世話になったフィールドに何か少しでも恩返しがしたいな。 いわき市の雑木林のふもとで小5、小4、3才、妻、母、と暮らす。フライフイッシグは自分の終生のライフスタイルとして続けて行きたい。またこの美しい自然を残していくため等身大の活動を少しずつ始めたいと考えています。 |
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